池奥の集落 [長浜]
”池奥”は、織田信長の妹婿(お市の方の旦那)浅井長政の居城”小谷城”のあった小谷山の麓にあります。
三方を山に囲まれた静かな集落です。
集落には伝統的な構法の建物が並んでいます。
土壁の感触が素敵な蔵
今回のイベントの舞台の一つとなる住宅。
トタンはかぶっていますが、茅はまだ残っています。
集落のそばには”野鳥の楽園 西池”が広がっています。
冬には渡り鳥で賑わいます。
実はコンデジを新調しました。
今回の写真はそのお披露目です。
さすがは光学18倍ズーム。こんな写真もお手の物。
イベント”移り住むなら滋賀県湖北 浅井へおいで”のご紹介 [長浜]
湖北移住交流支援研究会
日 時:平成20年7月13日(日)午後1時~5時
開 催 地:長浜市池奥町・乗倉町
集合場所:長浜市池奥町西池駐車場(地図は参加者の方に別途配信)
募集人員:10組 (先着順)※募集締め切り6月27日
参加代金:お一人様 500円 (資料代、保険代等)
参加申込み: FAXまたはE-mailにて、滋賀県立大学地域づくり教育研究センターまで
※電話でのお申し込みはご遠慮ください。
◇FAXの場合…………裏面申込書に必要事項を記入の上、送信してください。
◇E-mailの場合………裏面申込みに記載の事項をメールに記述して、送信してください。
問い合わせ: 滋賀県立大学 地域づくり教育研究センター(担当:近藤・奥野)
〒522-8533 彦根市八坂町2500 TEL 0749-28-8612 FAX 0749-28-8567
E-mail chiiki@office.usp.ac.jp
詳細は、リンクにある”湖北スタイル”のホームページをご参照ください。
次回からは周辺の紹介を行います。
鍛冶屋の風景 [長浜]
先日、鍛冶屋さんを紹介した滋賀県長浜市鍛冶屋町の話です。
写真を見ていただくと、てっぺんに槍の穂先が付いています。
この集落の鍛冶屋さんは、元々は槍の穂先を作っていました。
地元の方のお話では、あの”賤が岳の七本槍”の槍もこの鍛冶屋で作られたそうです。
集落内を散策していると気になる建物が!
近寄ってみると・・・
これは窓口?
詳しい方に伺うと、以前は郵便局だったとのこと。
集落内を流れる水路で、野菜を洗う方がいらっしゃいました。
水がきれいで、しかも水量も豊富な素晴らしい水路です。
さらに散策を続けるとこのようなところが!
呪い?
怨念?
禍々しいもののはずなのに、何故か微笑を誘われます。
鍛冶屋の鍛冶屋さん [長浜]
今回訪問したのは、滋賀県長浜市浅井町鍛冶屋の集落。
集落内にある”ふりーすぺーす まんよ”
ここは、古い民家を改装したレストランです。
お勧めは地元で採れた材料を使った”郷土料理”
今回の舞台はこのレストランではなく、手前にあるこの建物
実はこれ、鍛冶のための小屋です。
鍛冶屋の集落はその名の通り、鍛冶屋が集まった集落です。
鍛冶屋の集落には昭和の初期、100件ほどの鍛冶屋がありました。
それが昭和30~40年代になると40件ほどになり、
今では実際に作業が行える場所はここ一箇所だけです。
今回その業を披露してくださるのは、左側のおじいさんです。
昭和の時代に鍛冶の作業は一旦途切れました。
それが数年前に復活したのです。
鍛えるのは農機具です。
今回は鋤をなおします。
昔は秋に周辺の集落を廻って補修の必要な農機具を集め、
冬の間に鍛えなおしたり、磨り減った部分をつぎ足したりしていたそうです。
この写真は磨り減った箇所につぎ足す鉄を鍛えているところです。
つぎ足すのに必要な大きさに整えます。
鍛えた箇所にふりかけているのは”ホウ酸”
つぎ足す部分で接着剤の役目を果たします。
こちらは泥を被せているところ。
泥を被せて熱することで、効率よく鉄を熱することが出来ます。
熱するのに使用する燃料は”木炭”
樹種は”松”でないと駄目だそうです。
理由は火力調整が容易なため。
色々なものが火花となって飛び散ります。
つぎ足した鉄がなじむように鍛え、再度加熱。
この作業を繰り返します。
大吉寺 [長浜]
大吉寺
大吉と言えばおみくじ。おみくじと言えば神社と連想するのですが、今回訪問したのは”大吉”という名のついたお寺です。
大吉寺の歴史は古く、平安時代前期に安然上人によって建立されました。建立には地元の豪族浅井氏も協力しました。
参道入り口にある石碑
石段を登っていくと、山門にたどり着きます。
山門の奥に庫裏があり、さらに石段が続きます。
石段を登りきると本堂です。
寂寥山 大吉寺 または天吉寺
参道の脇にある安然上人堂
お堂の中には、上人の石像が祀られています。
安然上人は梵語の研究で有名な方で、学問を志す人にはご利益があります。
実は、大吉寺の主な建物は、今回紹介したものだけなのです。意外に思われるかもしれませんが、これにはわけがあります。
建立当時、隆盛を誇っていた大吉寺も、信長の焼き討ちに遭い、衰退していったのです。浅井氏に協力的だったことが焼き討ちを招きました。
今回は時間が無くていけなかったのですが、山の上のほうに建立当時の隆盛をしのばせる伽藍の跡があります。 次回はもっと早い時間に来て上まで登りたいと思っています。
参道にあった大吉寺の石碑の脇に上の森神社の石碑がありましたが、ここからはその上の森神社です。
森の中にひっそりとたたずむ神社です。
上があるからには下もあります。こちらもまたの機会に紹介します。
神社の入り口の近くに、滝と大石の看板がありました。250m先にあるとのこと。
”では行ってみるか”と、先に進んでみました。
これがいけませんでした。山道の250mは平地の250mとは大違い!
途中で何度も”行ってみるか”の決断を後悔しつつ、”ここまでくれば見ずには帰れない”の意地で登っていきました。
ようやくたどり着いた滝です。滝をみて、途中の苦労もぼやきも洗い流されてしまいました。
ここで気を取り直し、大岩まで行ってみることにしました。
見上げるばかりの大岩です。思わず触れてみました。大自然のエネルギーを分けていただける気がしたのです。
滝に大岩。修験道のような雰囲気でした。
車を降りてからここまでに出会った人はお寺で清掃をしていた係りの方ただ一人。
自然に一人佇む貴重な時間を頂きました。
滝と大岩まで行く途中の山は間伐が行われ、光差し込む清清しい森です。
土砂流出防備保安林でした。木の成長を促し根をしっかりと育むことで土砂崩れを防ぐ森だったのです。
五先賢の館 [長浜]
浅井町内の国道365号線を走っていると、”五先賢の館”という看板が目に入ってきます。一体なんだろうと思いつつもその疑問の答えを求めようとはしませんでした。
今回その長年の疑問が氷解しました。
これが五先賢の館の外観です。中は有料の資料館になっており、五先賢ゆかりの品が資料が展示されています。
建物中央に六角の吹き抜けがありステンドグラスで飾られています。ステンドグラスの題材はもちろん”五先賢”です。
五先賢とは、浅井町ゆかりの5人の賢人という意味合いです。
5人の賢人を順に紹介していきます。
小堀 遠州(こぼり えんしゅう)
茶道・造園美術建築の巨匠
片桐 且元(かたぎり かつもと)
賤ヶ岳七本槍の名武将
最初見たときは、浅井長政かと思ったのですが、実は片桐 且元でした。
海北 友松(かいほう ゆうしょう)
狩野派代表の画家
小野 湖山(おの こざん)
漢詩・書道の大家
相応和尚(そうおうかしょう)
比叡山の高僧
館近辺にも五先賢ゆかりの地があります。
相応和尚生誕の地を示す石碑
小野湖山生誕の地を示す石碑
道を走っていると素敵な古民家がありました。
今は住んでいらっしゃらないのでしょう。屋根の茅の手入れがされておらず、穴が開いています。
うちの大敵は雨漏りです。雨が屋内に入ると痛みが加速します。
このまま朽ちるに任せるのはもったいないなと思いつつその場を後にしました。
浅井町内のあちこちで目にするのがこの観光MAPです。
これを見ていると”次はこれを見てみよう”とぶらぶらと観光してみたくなります。
ただし、注意が必要です。このMAPを見ていると歩いて廻れるように感じますが実は車で移動しないといけない距離なのです。
傾斜地に棚田が広がっています。
棚田の脇に用水路が走っています。用水路は斜面に沿って斜めに傾くのではなく、棚田と同じように階段状になっています。
階段のように水が落ちるところにはこのようなマンホールが設置されています。ここで水を下の段に落とすだけでなく、必要なときはここから水を田んぼに引き込みます。
近江孤蓬庵(小堀遠州侯菩提寺) [長浜]
孤蓬庵と聞けば、京都大徳寺を思います。
実は同名の庵が滋賀県長浜市にあります。
二代宗慶侯が小堀遠州侯の菩提寺として建立した寺です。
京都大徳寺のものと区別するために、”近江孤蓬庵”と呼ばれています。庭園の美しい庵です。
場所は、長浜市浅井町、浅井長政の居城”小谷城”のあった小谷山の近くです。
車で行くと”孤蓬庵”と刻まれた石碑が目印です。
駐車場に車を停めて歩いていくと境界を示す門がみえます。
この門の先に山に沿って参道があります。道は緩やかなカーブを描き、奥が見えないようになっています。
ゆっくりと道を進むと、ようやく山門が見えてきます。
山門に”孤蓬庵”と掲げられており、目的地であることがわかります。
本堂。今ある本堂は昭和に再建されたものです。
庭へ通じる門
玄関は、大津市三井寺下の武家屋敷の玄関を移築したものです。
玄関には、”孤蓬”の扁額がかかっています。
拝観料を払って入るのですが、徴収する人はおらず、拝観する人に任せられています。なんとものどかです。
ご本尊(華厳の釈迦牟尼如来)
本堂内の襖は故皆川月華氏の染彩画で飾られています。
この濡れ縁から庭園を望みます。
庭園は”枯山水”と”池泉廻遊式”のふたつの様式があります。
枯山水の庭
左奥に”三尊石”、”五老峰”があり、そこから流れ出る水が大海へと流れ出る様を表しています。
枯山水と聞くと白砂で覆われているイメージですが、この庭は苔で覆われています。
池泉廻遊式庭園
中央の池は琵琶湖の形を模しています。残念ながら濡れ縁からはその形は正確にはつかめません。
礎石をくりぬいて作った手水鉢
庵の名である”孤蓬”は遠州侯の号でありますが、”一隻の葦舟”と言う意味もあります。
左下の石が川を行く葦舟を表しており、ここからこの庵の名がつけられました。
小堀遠州出生の地 [長浜]
小堀遠州といえば、茶人であり建築家、作庭家、そして他にも多彩な才能を有する人物として知られています。
彼の手になるものとして有名なものは、京都大徳寺にある”孤蓬庵”、桂離宮などが挙げられます。
その小堀遠州が実は近江(滋賀県)出身であると言うことは、あまり知られていないのではないのでしょうか。今回は小堀遠州の出生の地を訪ねて見ました。
小堀遠州の出生地は滋賀県長浜市小堀町にあります。残念ながら生家は残っておらず、いまはその地を示す石碑だけがあります。
石碑はアパートの駐車場の一角にぽつんと建っており、小堀遠州とこの地を結び付けるには、想像の翼をかなりはばたかせる必要があります。
これではあまりにも寂しいので、付近を散策してみました。
鉄骨造のアパートが建ち並ぶ中、茅葺きの屋根にとたんをかぶせた民家がまだ残っていました。
茅葺きの納屋
一部二階建ての茅葺き民家。平屋を一部二階に改築したのでしょうか?
出生の地から少しはなれたところにある休憩所
休憩所の脇には灯篭が建っており、”秋葉宿”と彫られていました。
今までの写真を見ていただくと、長浜市の郊外といった印象を受けられると思いますが、出生の地は市街地のすぐそばにあります。
滋賀県の誇る大規模小売店舗 ”平和堂グループ”の店舗”アルプラザ 長浜店”のすぐ裏なのです。
この店舗の表側にはバイパスが走っており、表に廻ると喧騒の中に放り込まれます。
せめてもの救いはこの細い川でしょう。
この川があることで喧騒とのあいだに境界が存在する気がします。
長浜曳山まつり(戻り山(協賛山)) [長浜]
今年の長浜曳山まつりの記事も今回で最後です。
当番山の子供歌舞伎が奉納される最中、協賛山8基が長浜八幡宮からそれぞれの町内へと戻って行きます。戻る様も各山に色々です。一度に出口を目指す山、本殿に背を向けずに移動する山、動きながら転回する山、転回してから移動する山、等々。また、曳き手が若く勢いの良い山、若手がいなくて苦労しながら移動する山、見ていて飽きませんでした。
春日山(本町組)
月宮山(田町組)
青海山(北町組)
諫鼓山(御堂前組)
猩々丸(船町組)
この山だけがたの山とは形が違います。町の名が示す通り、船の形をしています。今は埋め立てられて遠のいてしまいましたが、船町は昔琵琶湖岸に面していました。
高砂山
鳳凰山
最後の山である壽山が長浜八幡宮を後にします。この頃には日が傾いていました。
山が移動した後の道路には幾つもの筋が残ります。
来年の当番山である4基は町内には戻らず、曳山博物館に収納されます。修復あるいは展示されながら来年の出番を待ちます。
曳山が通るアーケードも山が通過することを考慮した形になっています。
お旅所脇の信号機です。面白い形をしていますが、これは山が通過する際手動で脇に寄せるように出来ています。
長浜曳山まつり(子供歌舞伎) [長浜]
今回は、子供歌舞伎です。
長浜曳山まつりは、昭和30年代から現在まで、毎年4基の当番山が”子供歌舞伎”を奉納してきました。長浜曳山まつりの長い歴史の中で、当番山が3基や、6基のときもありました。
この当番山が、八幡宮から出発し、お旅所に向かう道中において”子供歌舞伎”を披露します。
長刀山(奥がお旅所)
お旅所には長浜八幡宮の神様が神輿に乗っていらっしゃってます。
写真のように辻に山を停め、”子供歌舞伎”を奉納します。辻で演ずるのは3方から観客が子供歌舞伎を見れるからです。
各々の山が長浜八幡宮で1回、道中で2回、お旅所で1回の計4回歌舞伎を奉納します。
次からの写真は、翁山の”絵本太閤記 十段目 尼ヶ崎閑居の場”です。
この写真は、今回の発見です。何回もこの子供歌舞伎を見ているのですが、今までずっと歌舞伎の音曲は録音だと思い込んでいました。この写真を見てわかるように、音曲は実は生演奏であったということが始めてわかりました。風のいたずらでわかった発見です。
子供と付いてはいますがれっきとした歌舞伎です。演じているのは皆男の子です。とてもそうとは思えない妖しい色気が漂っています。
次の2枚は孔雀山の”伽羅先代萩 足利家御殿の場”です。
先の翁山もそうですが、演じている子達は皆素晴らしいです。せりふを噛んだり、忘れたりすることが無いのです。
脇の子はたまに棒読みになりますが、主役クラスの子は演技もなかなかのものです。
写真左手前の黒い着物の男の子はなんと5歳です。舌足らずのせりふで観客の微笑を誘っていましたが、せりふを間違えることはありませんでした。
今年最後の歌舞伎奉納です。夜になると山は照明で飾られ、歌舞伎も幻想的です。夜の9時開始と予定をだいぶ遅れての開演でした。さすがに幼い子供たちは疲れたと見えて、あくびをかみ殺しながら頑張っていました。
この奉納が終わると神輿に乗って神様がお旅所から八幡宮へと帰り、祭りは終焉となります。
お旅所の位置です。